receptor

もう二度とは戻らないとしたら

そして少し後には、

もう二度と 立ち上がれないと思う時でも

もう二度と。もう二度と。戻らない。立ち上がれない。

ところが最後には、

歩き出すもう一度

となる。「もう二度と」から、「もう一度」へ。失ったものが戻るとは言わない。悲しみが消えたとも言わない。それでも、自分はもう一度歩けるかもしれない。

receptor は、そのくらいの変化を受け取る歌なのだと思う。

作品情報

Track
10
制作
作曲2008年9〜10月・作詞2008年9月〜2009年5月
初出
2011年9月4日
クレジット
作詞: みゅー/作曲: みゅー

歌詞

あぁ なぜ 木々は何も語らないのかな?
あぁ 風吹かれるまま 揺れてるのかな?

失われる悲しみも 消えゆく灯火も
愛し合う二人の終わりも
別れゆくことの意味も 分かり合えずの夢も
もう見たくもない

あぁ ただ 季節は巡り巡るのかな?
あぁ ただ 生命は繰り返すのかな?

あれほど時間をかけて 積み上げてきたもの
もう二度とは戻らないとしたら
失われた物語 夢の続きを
誰も詠むことはない

やりきれない悲しみも 行き場のない怒りも
草木のように そっと受け容れて
あるがままにすべて 許し認めて
また会える日まで

過酷な旅の途中で 力尽き
もう二度と 立ち上がれないと思う時でも
愛された記憶が今も まだ胸の中 放ち続ける光

凍える朝も やる気のない午後も
嵐の夜も ただ受け止めて

微かな追い風を 背中に受けて
歩き出すもう一度

やりきれない悲しみも 行き場のない怒りも
草木のように そっと受け容れて
小さな幸せを 拾い集めて
また笑える時まで

今誰より強く 願いを込めた
心から I love you

心から I love you

曲を読む

最初に話しかける相手は、人ではない。

あぁ なぜ 木々は何も語らないのかな?
あぁ 風吹かれるまま 揺れてるのかな?

木々は、

何も語らない

そして、

風吹かれるまま

揺れる。なぜ黙っているのか。なぜ抗わず揺れているのか。答えはない。

しかも問い方は、

なぜ

と言いながら、最後は、

のかな?

である。問い詰めるというより、一人で考えている。木々から正解を聞き出したいわけではなさそうだ。そもそも木々は、何も語らない。その沈黙を前に、自分だけが問い続けている。

そして次の連では、「も」がずっと続く。

失われる悲しみも 消えゆく灯火も
愛し合う二人の終わりも
別れゆくことの意味も 分かり合えずの夢も
もう見たくもない

悲しみ。灯火。終わり。意味。夢

ひとつずつ積まれていく。そして最後は、

もう見たくもない

ここにも「も」がある。

でも今度は、何かを追加する「も」ではない。

もう、見たくない。全部並べた末に、拒絶する。受容を題名に持つ歌なのに、最初に出てくるのは、受け止めよう、ではない。

もう見たくもない

である。かなり強い。見たくない。考えたくない。そんなところから始まる。

だから、この曲の受容を、悲しみを穏やかに受け止められる境地、と最初から定義するのは難しい。まだ拒んでいる。その拒絶も含んだまま、歌は進む。次の問いでは、最初の、

なぜ

が消える。

あぁ ただ 季節は巡り巡るのかな?
あぁ ただ 生命は繰り返すのかな?

今度は、

ただ

である。ただ季節は巡る。ただ生命は繰り返す。そこに意味がある、とも言わない。

意味なんてない、とも言わない。ただ、巡るのかな。繰り返すのかな。それを見ている。

でも、人の時間は同じようには戻らない。

あれほど時間をかけて 積み上げてきたもの
もう二度とは戻らないとしたら
失われた物語 夢の続きを
誰も詠むことはない

あれほど時間をかけて

である。かなり長い。その時間をかけて、

積み上げてきたもの

がある。それが、

もう二度とは戻らない

と言い切るのかと思えば、

戻らないとしたら

である。条件形。戻らない。

ではない。

戻らないとしたら。失われたことを見ようとしながら、文法の端にはまだ少し留保がある。そして、

失われた物語 夢の続きを

誰も、

詠むことはない

最初の木々は、

何も語らない

だった。ここでは人も、

誰も詠むことはない

になる。語らない木々。詠まれない夢の続き。歌の中から、言葉が少しずつなくなっていく。

失われるのは、起きた過去だけではない。

夢の続き

まだ起きていなかった先の時間まで、誰にも詠まれない。そのあと、ようやく「受ける」側の言葉が出る。

やりきれない悲しみも 行き場のない怒りも
草木のように そっと受け容れて
あるがままにすべて 許し認めて
また会える日まで

最初は、

もう見たくもない

だった。そこから、

受け容れて

へ来る。ただし、受け容れた、ではない。

受け容れて

である。そして、許した、でもなく、

許し認めて

二つとも、「て」で次へつながる。まだ途中だ。受容完了。許し完了。とは言わない。

しかも手本は、

草木のように

である。冒頭の木々を思い出す。あの木々は、何も語らなかった。そして、風吹かれるまま、揺れていた。

つまり、草木のように受け容れる、というのは、何も感じなくなることではないのかもしれない。風が来れば、揺れる。でもそこにいる。少なくとも歌詞の木々は、そうしている。

そして期限は、

また会える日まで

である。いつか再会する。そう信じているのか。願っているのか。そこも断言はしない。

ただ、今ここで全部終わらせるのではなく、また会える日まで、という時間の中へ置く。その次に、もう一つの「もう二度と」が来る。

過酷な旅の途中で 力尽き
もう二度と 立ち上がれないと思う時でも
愛された記憶が今も まだ胸の中 放ち続ける光

さっきは、

もう二度とは戻らないとしたら

だった。失ったものが、戻らない。今度は、

もう二度と 立ち上がれない

自分が、立てない。「もう二度と」が、外側の喪失から、自分の身体へ移る。ただし、こちらにも、

と思う時でも

が付く。立ち上がれない、と確定はしない。そう思う時。その時に残っているのが、

愛された記憶

である。ここは、愛した記憶、ではない。

愛された

受け身だ。誰かから受け取ったもの。しかも、

今も まだ

と二重に残る。今も。まだ。関係が終わっても、時間が経っても、胸の中では、

放ち続ける光

になっている。受け取ったものが、そのまま保存されているというより、内側で光を出し続けている。ここで題名の receptor を思い出すのは自然だと思う。ただし、受容体とはこういう科学的仕組みで、だからこの歌はこういう意味だ、と生物学へ固定する必要はない。

当時メモに確かなのは、アルバムで考えていた「受容」から、「受容体(レセプター)」という題を付けたこと。歌詞を読むと、外から受け取った愛が、今の自分の内側で光を放つ。

その構造と題名が、あとから面白く重なって見える。そして、受けるものは大きな愛や悲しみだけではない。

凍える朝も やる気のない午後も
嵐の夜も ただ受け止めて

朝。午後。夜。一日が並ぶ。凍える朝。

嵐の夜。その間にある午後が、

やる気のない午後

なのがいい。急に生活感がある。絶望の午後。悲嘆の午後。

ではない。

やる気がない。それも、

ただ受け止めて

今度は、

受け容れて

から、

受け止めて

へ変わる。悲しみや怒りという大きな感情だけでなく、やる気がない午後まで、今日の一部として受ける。しかも、

ただ

がここで戻る。さっきは、ただ季節は巡る。ただ生命は繰り返す。だった。

ここでは、ただ受け止める。意味を全部説明しなくても、今日がそうだったことを、いったん受ける。そして、三度目の「受ける」が来る。

微かな追い風を 背中に受けて
歩き出すもう一度

最初は、

風吹かれるまま

木々が揺れていた。

次に、悲しみを、

受け容れて

一日を、

受け止めて

最後には、追い風を、

背中に受けて

である。「受ける」という動詞が、少しずつ身体へ近づく。しかも風は、

微かな

追い風。

大風ではない。

人生を全部変えるほどの奇跡でもない。ほんの少し、背中に来る。それで、

歩き出すもう一度

となる。ここがかなり好きだ。それまで二度、

もう二度と

と言っていた。戻らない。立ち上がれない。もう二度と。もう二度と。

でも、最後には、

もう一度

になる。たった一文字、「と」がなくなる。

失ったものが元どおりになるわけではない。

それでも、自分は、もう一度、歩けるかもしれない。この歌が約束するのは、その程度のことなのだと思う。二度目のサビでは、さらに少し変わる。

やりきれない悲しみも 行き場のない怒りも
草木のように そっと受け容れて
小さな幸せを 拾い集めて
また笑える時まで

最初の二行は同じだ。悲しみも。怒りも。まだある。消えていない。

でも三行目は、最初の、

あるがままにすべて 許し認めて

から、

小さな幸せを 拾い集めて

へ変わる。ここも面白い。少し前には、

あれほど時間をかけて 積み上げてきたもの

が失われた。大きく、積み上げた。それが戻らない。今度は、

小さな幸せ

を、

拾い集めて

である。また大きなものを一気に積み上げようとしない。落ちている小さなものを、一つずつ拾う。動詞も、積み上げる、から、拾い集める、へ変わる。

そして期限も、

また会える日まで

から、

また笑える時まで

になる。最初は再会。後では笑うこと。だから、相手が戻ってこなければ回復できない歌から、完全に自立しました、とまで言う必要はない。「また会える日まで」という願いは、一度ちゃんと歌われている。

消されてはいない。ただ二度目には、別の未来も置かれる。

また笑える時

誰が笑うのかは明示しない。でも少なくとも、再会だけではない時間が、歌の先に増える。そして最後は、

今誰より強く 願いを込めた
心から I love you

心から I love you

二度言う。ここで残るのは、I need youではない。I love youである。ただし、必要ではなく愛へ進化した、という話にしてしまうと簡単すぎる。

この曲にはまだ、

また会える日まで

も残っている。会いたい。笑いたい。愛している。いろいろある。

重要なのは、

愛された記憶

という受け取った側の言葉のあとに、最後は、

I love you

と、自分から外へ言葉を返していることだと思う。受け取る。内側で光になる。そして、もう一度、外へ言う。receptor は、何もかも黙って受け入れるだけの器ではない。

少なくともこの歌の最後では、受け取ったものを持ったまま、まだ誰かへ、愛している、と言える。でも、笑えた、とは言わない。最後まで、

また笑える時まで

である。まだその途中にいる。

受容を歌ったからといって、最後を晴れやかに解決させなかった。受け容れることはできても、まだ笑えてはいない。その頃の本人も、作品全体に「空元気」「自分に言い聞かせる」「自分を励ます」感じがあると書いている。現在のみゅーはこの曲を見て「これが成熟だ」と言うが、それを初期作品への採点表にする必要はない。

制作背景

当時考えていた「受容」というテーマから、「受容体(レセプター)」と名づけられた曲。町田で対バンを見た後、帰宅して一人でピアノを弾くうちに曲と詞が生まれたという。音作りでは吉井和哉「バッカ」を思い浮かべ、間奏にツインギターのハーモニーを置いた。終わりにもう一度ツインギターを入れる案もあったが、あえて悲しい感じのまま終える方を選び、その理由を当時「人生うまくいくことばっかじゃないよなっていう戒め」と書いていた。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。

Mutant Music史から見ると

1st album『真実の口』の表題曲では、歌うことそのものが、自分の真実だった。隠さない。嘘をつかない。歌えば、それが自分の本当の気持ちになる。そんな強さがあった。

現在のみゅーは、その頃の自分へ、「これが成熟だ」と receptor を差し出している。でも、「真実の口」が幼く、receptor が上等になった、という話にすると、二曲ともつまらなくなる。

そもそも題名からして、役割が違う。「真実の口」は、口。外へ言葉を出すところである。receptor は、受容体。外から何かを受け取るところである。

一方は、歌う。一方は、受ける。

もちろん実際の歌はそんなに単純ではない。

でも作品史を後から眺めると、重心の違いは面白い。そして「受け取ったものが自分の中に残る」という歌は、もっと前にもあった。1st albumの「おてがみ」では、君がくれた勇気が、今も僕を動かしている。そう歌った。

receptor では、

愛された記憶が今も まだ胸の中 放ち続ける光

である。今そこに相手がいるから動ける、だけではない。過去に受け取ったものが、今の自分の中で働き続ける。この二曲はずいぶん離れているけれど、その一点ではかなり近い。

ただ、「おてがみ」には、相手から聞こえてくる励ましへ、自分も答えるような温度があった。receptor の冒頭にいるのは、何も語らない木々である。答えをくれる相手がいない。

その沈黙の中で、受け取った記憶を使って歩く。同じ「残されたもの」でも、歌われる孤独の濃さが違う。自然の扱いでは、「笑顔のち夏」も少し思い出す。あの曲では、草木。花。

鳥。太陽。自然は季節の変化を受け止めながら変わっていった。そして人へは、笑って暮らせ、と呼びかけた。

receptor にも、木々。草木。季節。風。がある。

でも今度の木々は、何も語らない。そして歌っている本人も、まだ、

また笑える時まで

の途中である。

自然が明るい答えをくれるわけではない。

ただ揺れている。同じ自然が、別の時期には、別の距離から見えている。そこを、思想が進歩した、とは呼ばなくていい。その時の自分が、自然へ何を見たのかが違う。

4th albumの中では、I love you, I need youとの並びも面白い。あの曲では、

I love you, I need you

と、愛していることと、必要としていることを、何度も一緒に言った。receptor の最後に残る英語は、

心から I love you

である。I need youは出ない。だから、必要とする愛を卒業して、自立した愛へ成熟した、と読みたくなる。

でも、そこまできれいではない。

receptor にはまだ、

また会える日まで

がある。会いたい気持ちは残っている。悲しみも。怒りも。消えていない。

ただ、最後に何度も言う言葉が、必要だ、ではなく、愛している、になった。その差がある。そして直前の表題曲「茜空」には、

何もかも受け容れて…

という一行があった。あの曲でも、受け容れた、ではなかった。受け容れて。途中の形。

その翌年まで詞を書き続けた receptor では、同じ、

受け容れて

が、題名そのものへ近づく。ただし、「茜空」で受容を発見し、receptor で完成した、という一本道にはしない。なにしろ receptor は、

もう見たくもない

から始まる。受容体と名乗っているのに、受け取りたくない。そこがいい。そして受け容れる。受け止める。

追い風を受ける。少しずつ「受ける」の形が変わって、最後には、

歩き出すもう一度

まで来る。

現在のみゅーがこれを、「成熟」と呼んだ。その言葉をあえて使うなら、強くなった、正しくなった、過去を克服した、という意味ではないのだと思う。見たくないものを、見たくないまま持っていられる。

悲しみと怒りを、なくせなくても生きられる。誰かを必要とした過去も、愛された記憶も、否定せずに置いておける。しかも、まだ笑えない自分まで、その中に入れておく。そういう容量のことなら、「成熟」という言葉は少し分かる。

でも、この歌も完成地点ではない。

また笑える時まで

で止まる。笑えた、ではない。

歩き出すもう一度

で、歩き始めただけだ。その先は書かれていない。アルバムの最後に置かれているのは、答えではなく、receptor。まだ何かを受け取れば、また反応してしまう名前である。

それくらい、終曲らしくない終わり方が、この曲には似合っている。

クレジット

作詞
みゅー
作曲
みゅー