ともしび
自分は小さな灯火だと言う。
でも、誰も照らせない。
次には木漏れ日になる。
でも、誰の目にも映らない。
そして世界の方は、
眩しすぎて
いる。自分の光は足りないのに、世界には光が多すぎる。その間で最後まで残るのが、
今の僕には唄うことしか出来ない
だった。「ともしび」は、消えないための方法を見つける歌ではない。消えそうな自分を、消えそうなまま歌にする。
作品情報
- 収録作品
- 2nd album『約束の場所』
- Track
- 7
- 制作
- 2006年10月
- 初出
- 2007年4月4日
- クレジット
- 作詞: みゅー/作曲: みゅー
歌詞
僕は 小さな灯火 今にも消えてしまいそうな
鏡に映る顔 笑ってみたの ひどく痩せ細った 憂鬱
口だけ動かす 作り笑いの僕 誰も照らせはしない 憂鬱
Ah 溢れ出す 胸の中に
僕は 小さな木漏れ日 誰の目にも映らない
横目でちらり 素通りされたの 哀しみの雨が降る
今の僕には唄うことしか出来ない
この世界は 僕が生きていくには 眩しすぎて
この世界は あまりにも複雑すぎて
素朴なものは否定されてしまう
寒い日の朝 震えてみたの 凍える心は 狂う
ひっそりと一人 燃え尽きてみたの 強い風が吹き付ける
さよなら さよなら・・・
曲を読む
最初から比喩ではなく、名乗ってしまう。
僕は 小さな灯火 今にも消えてしまいそうな
鏡に映る顔 笑ってみたの ひどく痩せ細った 憂鬱
「灯火のようだ」ではない。
僕は 小さな灯火
である。しかも、
今にも消えてしまいそうな
で一行が終わる。「消えてしまいそうな灯火」なのだろうとは思う。でも文としては、その先がない。何が消えそうなのかを言い切らないまま、視線は鏡へ移る。
そこで最初に出てくるのが、
鏡に映る顔
である。この歌ではあとで、
誰の目にも映らない
と歌う。最初は、自分の顔は鏡には映っている。少なくとも自分には見える。
でも、その顔に向かってすることが、
笑ってみたの
なのである。
笑った、ではない。
笑ってみた。試している。鏡の前で、こうかな、と笑顔を作ってみる。でも見えるのは、
ひどく痩せ細った 憂鬱
だ。顔が痩せ細っている。そして「憂鬱」まで、痩せ細ったもののように同じ行へ置かれる。身体と気分が、鏡の中で分けられなくなっている。次の行でも、笑顔はうまくいかない。
口だけ動かす 作り笑いの僕 誰も照らせはしない 憂鬱
Ah 溢れ出す 胸の中に
「口だけ」。笑っているのは口だけである。さっきの、
笑ってみたの
の結果が、これだったのかもしれない。灯火なのだから、本来なら何かを照らすはずだ。でも、
誰も照らせはしない
と言う。自分が消えそうなことだけでは足りず、誰かの役にも立てない、というところまで自分を評価している。ここで「憂鬱」が二度目に来る。最初の憂鬱。作り笑いの憂鬱。
同じ言葉から抜け出せない。その直後の、
Ah 溢れ出す 胸の中に
は、文としてかなり落ち着かない。「溢れ出す」なら、胸の中から何かが出てくるようにも聞こえる。でも歌詞は、
胸の中に
である。何が溢れているのかも書かれない。どちら向きに動いているのかも、きれいには決まらない。空っぽなのか。いっぱいなのか。
出ていくのか。入ってくるのか。そこを整理しないまま、次の光へ移る。
僕は 小さな木漏れ日 誰の目にも映らない
横目でちらり 素通りされたの 哀しみの雨が降る
今の僕には唄うことしか出来ない
今度は、
小さな木漏れ日
になる。灯火は、自分で燃える光だった。木漏れ日は、葉の隙間から届く光である。
光ではあるけれど、自分自身が光源ではない。
しかも、
誰の目にも映らない
と言う。ここで、最初の鏡が少し効いてくる。鏡には自分の顔が映った。
でも、誰の目にも自分は映らない。
自分には見えている。他人には見えていない。そんな配置になる。ところが次の言葉は、
横目でちらり
である。見られているではないか。誰の目にも映らない。
でも、横目ではちらりと見られた。
そして、
素通りされたの
である。
まったく気づかれなかったのではない。
気づかれた。少し見られた。でも止まってはくれなかった。「見えない」より、こっちの方が少し痛い。見つけてもらえなかったのではなく、見つけたうえで通り過ぎられた。
そこへ、
哀しみの雨が降る
雨まで来る。灯火にも、木漏れ日にも、あまり都合がよくない。火は雨で消えそうになる。木漏れ日には太陽が必要なのに、空は曇る。周りの景色まで、小さな光を消す方へ動いている。
その中で、
今の僕には唄うことしか出来ない
となる。「唄うことができる」。
ではない。
しか出来ない
である。
歌うことを誇っている言い方ではない。
たくさんの能力の中から、音楽を選んだのでもない。ほかにできることがなくなって、これだけ残った。そんな言い方だ。しかも最初には、
口だけ動かす 作り笑いの僕
がいた。口だけ動かしても笑えなかった。その口で、今度は唄う。笑うことはうまくできない。でも唄うことなら、まだできる。
そこまでなら読める。ただし、それで誰かを照らせるようになったとは書かれない。歌ったから救われた、とも書かれない。歌うしかない。それだけだ。
次に、問題は自分の小ささだけではなくなる。
この世界は 僕が生きていくには 眩しすぎて
この世界は あまりにも複雑すぎて
素朴なものは否定されてしまう
ここで「この世界は」が二度出る。一度目は、
眩しすぎて
二度目は、
複雑すぎて
である。どちらも「すぎる」。光が強すぎる。仕組みが複雑すぎる。
自分は小さな灯火で、誰も照らせない。なのに世界は眩しすぎる。光が足りない人の周りに、光が多すぎる。かなり皮肉な配置である。
明るさは、ここでは単純な善ではない。
眩しすぎれば、見ることができない。小さな灯火だって見えなくなる。そして、この二つの「すぎて」のあとに、
素朴なものは否定されてしまう
と来る。誰が否定するのかは書かれない。世界が否定するのか。人が否定するのか。複雑さそのものに居場所を奪われるのか。
主語は出てこない。しかも「素朴なもの」が何なのかも決められない。自分なのか。歌なのか。生き方なのか。
小さな光なのか。この曲自身も、灯火、鏡、木漏れ日、雨、風という、かなり素朴な像でできている。だから、この歌そのものまで「否定される側」へ置かれているようにも聞こえる。そして最後。
寒い日の朝 震えてみたの 凍える心は 狂う
ひっそりと一人 燃え尽きてみたの 強い風が吹き付ける
さよなら さよなら・・・
ここで、最初の語尾が戻ってくる。最初は、
笑ってみたの
だった。今度は、
震えてみたの
になる。笑うことなら、試しにやってみると言える。
でも、震えることは普通、勝手に起きる。
それを、震えてみた。と言う。さらに、
燃え尽きてみたの
まで行く。燃え尽きることも、本来なら試してみるような行為ではない。笑ってみた。震えてみた。燃え尽きてみた。
だんだん「みる」には重すぎることになっていく。まるで自分自身を少し離れたところから、これをやったらどうなるんだろう、と観察しているようでもある。しかも、
寒い日の朝
凍える心
と冷たくなっていく一方で、
燃え尽きてみたの
と燃える。凍る。燃える。反対のことが、同じ方向へ進む。どちらも最後には、動かなくなる。
その灯火へ、
強い風が吹き付ける
冒頭では、
今にも消えてしまいそうな
だった。最後に本当に、火を消せそうな風が来る。そして、
さよなら さよなら・・・
誰へのさよならかは書かれない。誰か。仲間。部活。これまでの生活。
世界。あるいは、自分自身。決められない。二度言って、三点リーダー。それでも終止符にはならない。
この歌には、火が大きくなる場面がない。誰かが見つけてくれる場面もない。世界が優しくなることもない。「唄うことしか出来ない」という一行だけを抱えたまま、さよなら、まで行く。だから、この歌を後から救う必要もないと思う。
消えそうだった。誰も照らせないと思った。誰の目にも映らないと思った。世界は眩しすぎた。それを、そのとき唄うことだけはできた。
そこまでである。大きなテーマを先に決めたというより、まず鏡に映った自分の顔と、小さなロウソクの像があったらしい。世界が眩しすぎるという感覚も、現在のみゅーは昔から抱えていたものだと振り返っている。「Beauty is Truth」につながるのかもしれない、という本人の後年の気づきは、そのまま「かもしれない」で残したい。
制作背景
最初にあったのは「か細いロウソクのイメージ」。部活動を引退し、痩せた自分の顔を鏡で見た頃の身体感覚から生まれたという。本人の回想では「なんせ1日200円で生活していたので」という生活も重なっていた。音楽面では間奏のハーモニカにオフコース「言葉にできない」を参照し、ピアノは「猛練習しました」。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。
Mutant Music史から見ると
アルバムの曲順では、「新しい命」のすぐあとに「ともしび」が来る。「新しい命」は最後に、
おめでとう!
と、新しく生まれた人を迎えた。その次の「ともしび」は、
僕は 小さな灯火 今にも消えてしまいそうな
から始まる。生まれたばかりの命。消えそうな自分の命。曲順で聴けば、かなり極端な並びである。ただし、これを生命の誕生と死を対にして計画した、と断定できる資料はない。
並べた結果、そう聞こえる。それだけでも十分だと思う。一つ前の曲では、生まれることが何なのか分からない、と言いながら祝った。こちらでは、生きている自分自身をどう扱えばいいのか分からない。同じアルバムの「生命」は、明るい方へ一方向には進まない。
そして「Beauty is Truth」との関係については、現在のみゅー自身が、
素朴なものは否定されてしまう
という一行を、「あの曲につながっているのかもしれない」と振り返っている。「Beauty is Truth」では、飾らないことを美しいと考えた。化粧やおめかしでは作れない、「飾らぬ美しさ」。を歌った。
「ともしび」では、その素朴さが、
否定されてしまう
になる。同じ「飾らない/素朴」でいることが、一方では美しく、もう一方では生きづらい。ただし、だから「Beauty is Truth」の理想がこの曲で破綻した、とまで言う必要はない。そもそも現在のみゅー自身が関係を「かもしれない」としか言っていない。別々の場面で、同じような価値に違う光が当たった。
そのくらいがちょうどいい。さらに後になると、現在のみゅーは、自分で二つの言葉の再登場を指摘している。一つは、「横目でちらり 素通り」。後の「Tokyo Walker」に、まったく別の文脈で戻ってくるという。ここでは、自分が横目で見られ、素通りされる。
後の曲では同じ言葉が別の場面へ置かれる。作者自身が「まったく別の文脈」と書いている以上、同じ物語の続きへする必要はない。言葉だけが、別の身体と景色へ移っていった。
もう一つは、「灯火」。後の「receptor」には、「消えゆく灯火」という言葉が出てくる。これも、現在のみゅー自身が再登場として指摘している。ただ、「ともしび」の火と、後の火を同じものにする必要はない。
ここでは、僕自身が、
小さな灯火
である。今にも消えそうな現在の自分だ。後の歌では、同じ火の言葉が別の時間、別の喪失の中へ置かれる。先に「ともしび」があったから、後の歌まで計画されていたわけではない。言葉が残っていた。
そして、ずっと後になって別の歌でまた火が点いた。そのくらいの関係なのだと思う。「ともしび」の最後を、後の曲から逆算して救済しない方がいい。この曲では最後まで、誰も照らせない。誰の目にも映らない。
唄うことしか出来ない。そして、さよなら。である。その状態があとから克服されたから価値があるのではない。そのとき消えそうだった火を、そのときの言葉で残した。
結果として、それだけは消えなかった。そこが、この曲にはよく似合っている。
クレジット
- 作詞
- みゅー
- 作曲
- みゅー