新しい命
最初は、
友達に子供がデキました
である。最後には、
友達に子供が生まれました
になる。その間に、女の子だと思ったら男の子になり、名前を考えたら決まらず、バカで遊び人だった友達の背中は「父の背中」に見えてくる。ずいぶんいろいろ変わる。でも、生まれることが何なのかは、最後までよく分からない。
分からないまま、「おめでとう!」まで行く歌である。
作品情報
- 収録作品
- 2nd album『約束の場所』
- Track
- 6
- 制作
- 2006年9月
- 初出
- 2007年4月4日
- クレジット
- 作詞: みゅー/作曲: みゅー
歌詞
友達に子供がデキました そいつはとってもバカで 遊び人
だけど どこか憎めなくて 僕の友達
ある時 彼の背中を見かけた時 とっても巨大なものに 思えました
僕が子供の頃 見たことのある 「父の背中」でした
「背負ってるものが お前とは違うよ」って彼が笑いながら言ってた
確かにそうだ! 僕には背負うものはまだない
だけど いつかは・・・
彼の彼女は「火星人」 そういうあだ名で僕らは 呼んでいた
だけどこれから こう呼ばれるだろう 「お母さん」
女の子だって分かってから みんなで必死に名前の案を出し合った
だけど結局 男の子だって分かって バカな友達(笑)
予定日は 秋と聞きました 秋にちなんだ名前の案を出し合った
だけど結局 決まらなくて 名前はなくとも 生まれておいで
生まれることが どういうことかは 僕にはまだよくわからないけど
生まれてきてよかったと 言えるような世の中に
僕ら していかなくちゃなぁ
今朝 彼から電話があって 今日明日中に生まれると 言われました
その夜 もう一度電話が来て 「生まれました」
泣いて 思い切り泣いて 生まれてくる彼の子のことを想った
抱いて 優しく抱いて 「新しい命」はこれから 強く生きていくから・・・
堪えて 痛みに堪えて 「新しい命」を産んだ 偉大な母のことを想った
泣いて 嬉しくて泣いて でも立ちすくむことしか出来ない 「友達」のことを想った
友達に子供が生まれました 人間の命の重みを知りました
心から想う 幸せになって欲しいと
おめでとう!
ラララ・・・
曲を読む
祝福の歌なのに、第一声からかなり遠慮がない。
友達に子供がデキました そいつはとってもバカで 遊び人
だけど どこか憎めなくて 僕の友達
「そいつ」。「バカ」。「遊び人」。新しい父親を紹介する言葉としては、あまり立派ではない。
でも最後には、
僕の友達
と戻る。バカで遊び人だけど、友達。この「だけど」が、この歌では何度も出てくる。
欠点を消して祝うのではない。
欠点をそのまま書いて、だけど、と次へ行く。正本では「できました」ではなく、
デキました
である。この表記が意図的だったかどうかは決めない。ただ、文字で見るとかなりくだけている。まだ「生命の尊さ」から始まらない。
まず、友達に子どもがデキた。という、自分の周りで起きた事件なのである。ところが、その「バカで 遊び人」の友達が、ある瞬間に違って見える。
ある時 彼の背中を見かけた時 とっても巨大なものに 思えました
僕が子供の頃 見たことのある 「父の背中」でした
友達の身体が突然大きくなったわけではない。
巨大なものに 思えました
なのである。変わったのは、見ている側だ。いつもの友達の背中に、子どもの頃に見た父の背中が重なる。昔は自分が子どもの側から見上げていた。今度は、同じ世代の友達がその場所へ立とうとしている。
時間が一世代ぶん動いたように見える。そして「背中」は、すぐ「背負う」へつながる。
「背負ってるものが お前とは違うよ」って彼が笑いながら言ってた
確かにそうだ! 僕には背負うものはまだない
だけど いつかは・・・
友達は説教するわけではない。
笑いながら
言う。それに対して、
確かにそうだ!
とずいぶん強く納得する。でも、
僕には背負うものはまだない
の「まだ」が残る。今はない。
でも、ずっとないとは言っていない。
そして、
だけど いつかは・・・
また「だけど」。何が「いつか」なのかは書かない。親になるのか。何か別の責任を背負うのか。三点リーダーの先は空いている。
未来について何か感じている。
でも、まだ文章にはできない。
次に変わるのは、背中ではなく呼び名だ。
彼の彼女は「火星人」 そういうあだ名で僕らは 呼んでいた
だけどこれから こう呼ばれるだろう 「お母さん」
「火星人」。ずいぶんなあだ名である。
でも、これからは、
「お母さん」
になる。
もちろん、その人自身が別人になるわけではない。
新しい人が一人生まれることで、すでにいる人の呼ばれ方が増える。誰かが生まれるということは、その人だけが新しく登場することではないらしい。周囲の人まで、父。母。祖父母。
友達。そういう新しい位置へずれる。この歌では、父は「背中」で現れ、母は「呼び名」で現れる。どちらも、新しい命を中心にした関係の変化として出てくる。ただ、準備はなかなか予定どおりには進まない。
女の子だって分かってから みんなで必死に名前の案を出し合った
だけど結局 男の子だって分かって バカな友達(笑)
また、
だけど結局
である。女の子だと思った。名前を考えた。違った。
しかも最後は、
バカな友達(笑)
父の背中が巨大に見えた人を、すぐまた「バカな友達」へ戻す。それも、(笑)つきである。立派な父親へ昇格して、昔の友達が消えてしまうわけではない。父でもある。バカな友達でもある。
両方残る。名前については、さらにもう一回うまくいかない。
予定日は 秋と聞きました 秋にちなんだ名前の案を出し合った
だけど結局 決まらなくて 名前はなくとも 生まれておいで
また、
だけど結局
である。性別を間違えた。今度こそ季節にちなんだ名前を考えた。それでも決まらない。歌はここで、名前を決めることをいったん諦める。
そして、
名前はなくとも 生まれておいで
と言う。かなりいい一行だと思う。名前は大切だ。これからその人を呼ぶために必要になる。
でも、生まれてくる資格ではない。
名前が決まるまで待ってくれ、とは言わない。決まっていなくてもいい。先に来ていい。周りの準備が整っていなくても、生命の方は進んでくる。ここまで、周りの大人たちはずっと予定を立てている。
性別を聞く。名前を考える。予定日を聞く。
でも、全部が予定どおりにはならない。
その中で、「生まれておいで」だけは、かなりまっすぐだ。そして、この歌でいちばん大きな問いが出る。
生まれることが どういうことかは 僕にはまだよくわからないけど
生まれてきてよかったと 言えるような世の中に
僕ら していかなくちゃなぁ
ここにも、
わからないけど
がある。また「けど」。生まれるとは何か。生命とは何か。分からない。
ここで急に哲学的な答えを出すこともできたはずだ。出さない。分からないまま、
生まれてきてよかったと 言えるような世の中に
と、話の向きを変える。生まれる意味を説明する代わりに、生まれた人があとで、生まれてきてよかった、と言えるようにしよう。問いへの答えではなく、迎える側の仕事を言う。
しかも主語は、
僕ら
である。父親だけでもない。母親だけでもない。少なくとも、歌っている自分もその中へ入る。
友達の子だから、自分には関係ない、とはしない。でも最後は、
していかなくちゃなぁ
である。大演説にはならない。「なぁ」。自分にも言い聞かせているような、かなり日常的な語尾で終わる。そのあと、本当に日付が動く。
今朝 彼から電話があって 今日明日中に生まれると 言われました
その夜 もう一度電話が来て 「生まれました」
朝には、
今日明日中に生まれる
未来だった。夜になると、
「生まれました」
になる。ほんの二行で、未来が過去形になる。しかもこちらは、その場に立ち会っていない。電話で知る。だから、この次に描かれる出産の場面も、目撃した記録ではない。
想像する。
泣いて 思い切り泣いて 生まれてくる彼の子のことを想った
抱いて 優しく抱いて 「新しい命」はこれから 強く生きていくから・・・
堪えて 痛みに堪えて 「新しい命」を産んだ 偉大な母のことを想った
泣いて 嬉しくて泣いて でも立ちすくむことしか出来ない 「友達」のことを想った
ここは言葉の頭がきれいに動く。泣いて。抱いて。堪えて。泣いて。
子どものことを想って泣く。新しい命を優しく抱く。痛みに堪えて産んだ母を想う。最後には、嬉しくて泣きながら立ちすくむ友達を想う。誰か一人の感情だけではなく、生まれる子、産む母、迎える父へ、想像が順番に移っていく。
そして四行のうち三行には、
想った
がある。
実際に見たのではない。
想った。電話の向こうで起きたことを、自分の中で組み立てている。母については、
偉大な母
とかなり大きく讃える。
一方、父になった友達は、
立ちすくむことしか出来ない 「友達」
である。冒頭では、背中が巨大に見えた。責任を背負う人に見えた。でも誕生の瞬間を想像すると、できることは、立ちすくむことだけ。大きな父と、何もできない友達が、同じ人の中にいる。
しかもここでは「父」と書かず、
「友達」
と括弧に入れる。子どもにとっては父になった。でも僕にとっては、まだ友達でもある。新しい関係が増えても、古い関係が消えるわけではない。
もう一つ、この場面では名前がまだ決まっていなかったはずの子が、
「新しい命」
と呼ばれている。
これが本当の名前というわけではない。
でも、名前がまだない間、この歌の中ではそう呼ぶことができる。そしてそれが、そのまま題名になっている。少し前には、
僕にはまだよくわからない
と言っていた。最後では、こうなる。
友達に子供が生まれました 人間の命の重みを知りました
心から想う 幸せになって欲しいと
おめでとう!
冒頭は、
友達に子供がデキました
だった。最後は、
友達に子供が生まれました
になる。「デキました」が「生まれました」に変わる。歌の中で、本当に一人増えた。さらに、
生まれることが どういうことかは 僕にはまだよくわからないけど
と言っていた人が、
人間の命の重みを知りました
とも言う。分からなかったのに、知った。矛盾しているようにも見える。
でも、同じことを言っているわけではない。
「生まれること」の意味全部を理解したとは書かない。その夜、電話を受けて、命には重みがある、と知った。分からないものはまだ残っている。それでも、前より一つ知ったことはある。だから最後に出てくる願いも、かなり単純だ。
幸せになって欲しいと
何者になってほしい、ではない。
強い人になれ。立派になれ。成功しろ。でもない。幸せになってほしい。
そして、
おめでとう!
で終わる。そのあとには、
ラララ・・・
がある。もう説明する言葉はない。生まれることが何なのか、最後まで全部は分からない。でも祝うことはできる。
むしろ、分からないからこそ、おめでとう、のあとに残るものを、ラララで歌うしかないのかもしれない。生命について格調高く考えてから書いたのではなく、まず友達のところに子どもができた。その具体的な出来事から、自分の父母へまで視線が広がっていく。現在から振り返れば長い時間が続いているけれど、歌の中ではまだ名前すら決まっていない。その時間差はそのまま残しておきたい。
制作背景
友人に子どもができたことから始まった、誕生を祝う歌。予定日が秋だったため周囲で秋にちなんだ名前を考えていた記憶があり、結局名前が決まらないまま「生まれておいで」という歌になった。自分の両親のことも思いながら書き、録音では本人が「自分で泣いちゃって歌えなくなった」という。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。
Mutant Music史から見ると
名前について考えると、1st albumの「君の名前」と並べたくなる。「君の名前」では、すでに名前を持って生きている人へ、
君に与えられた カワイすぎる名前
と歌った。名前は、その人がこれから何度も呼ばれ、自分でも書き、長く付き合っていくものとして大切にされた。「新しい命」では、その一歩手前にいる。まだ名前がない。みんなで考える。
性別の情報も外れる。季節にちなんだ案も決まらない。そして、
名前はなくとも 生まれておいで
となる。これは、名前なんて大切ではなかった、という訂正ではない。場面が違う。すでに誰かの名前として生きているものを大切にすることと、名前が決まる前の人を先に迎えることは、両立する。むしろ二曲を並べると、名前が人より先にあるわけではないことがよく分かる。
人が生まれる。やがて名前がつく。その後、その名前と長く付き合っていく。別の時間を歌っている。そして、現在のみゅー自身が具体的につないでいる言葉が一つある。
名前候補の、「秋葉」。この名前は結局採用されなかった。ところが後の「秋の終わり」には、「秋葉」という言葉が別の形で現れる。
現在のセルフライナーでは、みゅー自身が、名前候補として没になった「秋葉」が、後の歌詞へ入ったのだと説明している。これは「新しい命」を書いた時点から後の曲への伏線を仕込んでいた、という話ではない。人の名前にならなかった言葉が、手元に残った。そして後になって、別の歌の中で季節の像として使われた。そういう言葉の再利用である。
名前にならなかったものにも、その後がある。そこが少し面白い。
現在のみゅーは、『約束の場所』を振り返って、「生命(ライフ)」というもう一つの流れもあったように思う、と別のセルフライナーで書いている。その目でこの曲を見ると、たしかにかなり直球だ。
タイトルから、「新しい命」。でも、この歌が生命について何か完成した哲学を示すわけではない。むしろ、
生まれることが どういうことかは 僕にはまだよくわからないけど
と、最初から分からないと言っている。そして分からないまま、世の中を少しよくしなくちゃなぁ。幸せになってほしい。おめでとう。まで行く。
そこがいい。完璧に理解している大人たちが、一人の子どもを迎える歌ではない。バカで遊び人の友達がいる。性別を勘違いする。名前も決まらない。
父は立ちすくむ。歌っている本人も、生まれる意味をよく分かっていない。
でも、それでも迎える。
新しい命の前では、そのくらい不完全な人たちで十分なのかもしれない。少なくとも、この歌はそういう「おめでとう!」になっている。
クレジット
- 作詞
- みゅー
- 作曲
- みゅー