秋の終わり
秋が終っていく。
恋も終っていく。何もかも手のひらから零れていく。そしてとうとう、
あぁ 僕を置いていかないで お願い・・・
と言う。
この歌では、物事はただ「終わる」のではない。
終って、向こうへ行ってしまう。ところが最後には、
でも冬も好きだ!
である。あれだけ置いていかないでと言っていた本人が、もう次の季節を好きになっている。ずいぶん忙しい無常観だ。
作品情報
- 収録作品
- 2nd album『約束の場所』
- Track
- 8
- 制作
- 2006年12月
- 初出
- 2007年4月4日
- クレジット
- 作詞: みゅー/作曲: みゅー
歌詞
また今年も秋が終っていく 跡形も無く秋が終っていく
一番大好きな季節なのに 一番心待ちにした季節だったのに
何かが始まって終っていく あたかも定めの様に終っていく
変わらないものなど在りはしないのだ 全てが僕の手のひらから零れていく
夏の次に秋が来る様に 秋の次に冬が来る様に
季節は僕を裏切らないから あの娘の様に僕を裏切らないから
またしても一つ恋が終っていく 跡形も無く恋が終っていく
一番大好きな人だったのに 一番大事にしたい人だったのに
日が沈んで夜が来る様に 夜が明けて朝が来る様に
お日様は僕を裏切らないから あの娘と違って僕を裏切らないから
あぁ 僕を置いていかないで お願い・・・
秋葉が土に還る様に やがて雪が降り積もる様に
秋の次に冬が来る様に 冬の次に春が来る様に
季節は僕を裏切らないから あの娘の様に僕を裏切らないから
また今年も秋が終っていく でも冬も好きだ!
曲を読む
最初の二行で、同じ出来事を二度言う。
また今年も秋が終っていく 跡形も無く秋が終っていく
一番大好きな季節なのに 一番心待ちにした季節だったのに
一度目は、
また今年も
である。毎年のことだ。知っている。秋が終わることくらい、最初から分かっている。
でも二度目には、
跡形も無く
が付く。毎年来る普通の季節の変化が、突然、完全な消失みたいになる。分かっていたから平気、とはならない。さらに、
一番
が二度出る。一番大好き。一番心待ちにした。待っていた時間が長いほど、終わることへの文句も大きい。
そして語尾は、
なのに
だったのに
である。秋は何も約束を破っていない。いつも通り終わっている。
なのに、こちらからすると、こんなに好きだったのに。こんなに待っていたのに。となる。季節に対して、すでに少し無理なことを言っている。
そして、この歌で何度も出てくるのが、
終っていく
である。
「終る」だけではない。
終って、行く。こちらから離れていく感じが残る。次の連では、その秋の話をいきなり世界の法則まで広げる。
何かが始まって終っていく あたかも定めの様に終っていく
変わらないものなど在りはしないのだ 全てが僕の手のひらから零れていく
「何か」。ずいぶん大ざっぱだ。
秋だけではない。
何かが始まる。何かが終わる。全部そうなのだ、と言いたくなっている。さらに、
あたかも定めの様に
とまで言う。でも、「定めだ」
ではない。
あたかも
様に
である。運命そのものだと断定する少し手前にいる。避けられないもののように見える。そのくらいだ。
そして、
変わらないものなど在りはしないのだ
とうとう大命題になる。かなり悟っている。しかし次の一行は、
全てが僕の手のひらから零れていく
である。世界の真理を語っていたはずなのに、急に自分の手になる。変わること自体がつらいというより、自分が持っておけない。手に入れたと思ったものが、指の隙間から落ちていく。その感じの方が近いのかもしれない。
ここでも、
零れていく
である。また「行く」。秋が行く。何かが行く。手のひらからも行く。
だんだん、自分だけその場へ残されているように見えてくる。そこで、変わらないものを探す。
夏の次に秋が来る様に 秋の次に冬が来る様に
季節は僕を裏切らないから あの娘の様に僕を裏切らないから
夏の次には秋。秋の次には冬。確かに、季節はかなり律儀だ。ただし、この「裏切らない」は少し変である。
さっき、
変わらないものなど在りはしないのだ
と言った。秋だって終わってしまう。それなのに季節は裏切らないと言う。つまり、季節が信用できるのは、変わらないから、ではない。決まったように変わるからである。
秋が終わらないことを信じるのではない。
秋の次には冬が来ることを信じる。変化が嫌なのに、変化の規則正しさは好きだ。なかなかややこしい。それに対して、
あの娘の様に僕を裏切らないから
と、人を季節の反対側へ置く。でも「あの娘」が具体的に何をしたのかは書かれない。約束を破ったのか。期待に応えなかったのか。関係が終わっただけなのか。
分からない。ただ、季節は予想どおり動く。人はそうはいかない。その違いだけを、かなり乱暴に「裏切り」と呼んでいる。二番では、秋の文型がそのまま恋へ移る。
またしても一つ恋が終っていく 跡形も無く恋が終っていく
一番大好きな人だったのに 一番大事にしたい人だったのに
最初は、
また今年も
だった。今度は、
またしても
になる。秋が毎年終わるのは仕方がない。でも恋が、「またしても」終わるとなると、少し話が違う。またか。という感じが入る。
しかも文型は、ほとんど同じだ。秋が終っていく。恋が終っていく。跡形も無く秋が終る。跡形も無く恋が終る。
一番好きな季節。一番好きな人。季節の終わりと恋の終わりを、ほとんど同じ型へ入れてしまう。だから季節の話をしているようで、ずっと恋の話にも聞こえる。ここで少し気になるのが時制だ。
秋については、
一番大好きな季節なのに
と現在形で言っていた。恋では、
一番大好きな人だったのに
である。秋はいまも好きらしい。人の方は「だった」になった。この違いが意図的だったかは分からない。ただ、文字の上では、季節への愛着はまだ現在にあり、人との関係はすでに過去形へ入っている。
次に信用されるのは太陽だ。
日が沈んで夜が来る様に 夜が明けて朝が来る様に
お日様は僕を裏切らないから あの娘と違って僕を裏切らないから
今度も、信頼の理由は規則正しさである。日は沈む。夜になる。夜は明ける。朝になる。
お日様がこちらを好きだから昇るわけではない。
こちらの気持ちなど関係なく、勝手に繰り返している。その無関心さが、逆に信用できる。人間より予測しやすい。ここでは、
あの娘の様に
から、
あの娘と違って
へ言い方まで強くなる。季節と人を、もっとはっきり分けようとしている。ところが、ここまで積み上げた哲学が、次の一行で急に崩れる。
あぁ 僕を置いていかないで お願い・・・
ここが、この歌の真ん中だと思う。変わらないものはない。季節は規則正しい。太陽は裏切らない。いろいろ考えた。
でも結局出てくるのは、
置いていかないで
である。また「行く」。秋が終っていく。恋が終っていく。すべてが零れていく。
そしてとうとう、僕を置いていかないで。ここで、それまでの「行く」が全部一つの感情へ戻る。本当に欲しかったのは、宇宙の法則を理解することでも、季節の規則性を確認することでもなかったのかもしれない。ただ、一緒にいてほしかった。季節は裏切らない。
でも待ってはくれない。太陽は裏切らない。でもこちらを置いて朝へ進む。人間だけが悪いわけでもなくなってくる。そのあと、歌はもう一度、季節の順番を唱える。
秋葉が土に還る様に やがて雪が降り積もる様に
秋の次に冬が来る様に 冬の次に春が来る様に
季節は僕を裏切らないから あの娘の様に僕を裏切らないから
秋。冬。そして春。今度は、一周先まで見える。秋の終わりだけで止まらない。
冬も終わる。その先には春が来る。何かが終われば次が来る、という最初からの話が、ここでようやく一周する。ただし、
僕を置いていかないで
と言った気持ちが消えたわけではない。
寂しい。でも季節は進む。そういう両方が残る。そして最後。
また今年も秋が終っていく でも冬も好きだ!
冒頭と同じ、
また今年も秋が終っていく
へ戻る。事実は何も変わっていない。秋は終わる。
でも、そのあとに、
でも冬も好きだ!
が付く。ここまでずっと、「なのに」。「だったのに」。と、不満の接続詞でつないできた。好きだったのに終わる。
大事にしたかったのに終わる。最後だけ、でも。になる。秋が終わる。でも冬も好き。
「のに」は、目の前の出来事を受け入れられない言葉だった。「でも」は、同じ事実の横へ別の感情を置く。秋が終わって悲しい。でも冬も好き。どちらかを消さない。
ここがいい。
現在のみゅーは、この一行を「心変わり」と呼んでいる。確かに、あれだけ嘆いていた人が急に冬まで好きだと言うのだから、立ち直りはかなり早い。ただ、歌詞だけを読めば、秋が一番好きではなくなった、とまでは書いていない。一番好きな秋が終わって悲しい。それでも、冬も好きだ。
両方あっていい。むしろ最後に起きているのは、悲しみが消えたことより、悲しみだけではなくなったことなのかもしれない。変わらないものなどない。人も変わる。季節も変わる。
そして、自分の気持ちも変わる。さんざんそれを嫌がった末に、最後は自分自身がその無常の中へ入ってしまう。悟ったというより、冬も好きだったことを思い出した。そのくらいの軽さが、この歌にはよく似合っている。
人の気持ちは変わる。でも季節の順番なら信じられる。そんな歌を作っておきながら、最後には本人の方があっさり冬を好きになる。現在のみゅーの言う「一番の裏切りは、この心変わり(立ち直り)の早さ」というセルフツッコミまで含めて、この曲の無常観なのだと思う。
制作背景
現在のみゅーは、この曲を「無常観を唄った歌」「変わり続けることだけが変わらないことだという悟り」と振り返っている。ただし最後には冬を好きだと言ってしまう。その反転は意識した「どんでん返し」だったという。1st album「笑顔のち夏」の季節の文型を自分で一つ先へ進めたこと、「新しい命」で名前候補だった「秋葉」という言葉を別の意味で再利用したことも本人が明示している。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。
Mutant Music史から見ると
「秋の終わり」は、以前の曲からいくつか言葉を受け取っている。一つは「笑顔のち夏」。あの曲では、
春の次に夏が来るように 僕らも大人になっていく
と歌った。季節が変わることは寂しい。それでも草木や花や鳥や太陽は変わっていく。そんなふうに、誰かへ季節の変化を差し出していた。
「秋の終わり」では、
夏の次に秋が来る様に 秋の次に冬が来る様に
になる。季節が一つ進んだ。そして今度は、他人を励ますためではなく、自分の恋が終わった場所でその規則を使う。前に誰かへ言った理屈を、自分が必要とする番になったようにも見える。
でも、きれいには使えない。
あぁ 僕を置いていかないで お願い・・・
が残る。季節の循環を知っていても、寂しいものは寂しい。そこは変わらない。「新しい命」から受け取ったのは、「秋葉」という一語だった。あちらでは、人の名前になるかもしれなかった。
こちらでは、
秋葉が土に還る様に
と、季節の中へ戻る。人の名前にならなかった言葉が、土へ還る葉になる。かなり妙な転職である。でも、これも最初から作品間で計画された伏線ではない。作者自身の現在の説明では、没になった名前が後の歌へ入ったということだ。
そしてアルバムの公式曲順では、この次に「冬の鼓動」が来る。
現在のみゅーは、「そして、『冬の鼓動』に続く!」とセルフライナーに書いている。曲順だけ見れば、とても自然である。秋が終わる。雪が降る。
冬になる。次の曲は「冬の鼓動」。きれいにつながる。ところが保存されている制作月では、「冬の鼓動」は2006年11月、「秋の終わり」は2006年12月。作った順番は逆である。
だから「秋の終わり」を書いたことで「冬の鼓動」が生まれた、とは言えない。むしろアルバムへ並べたときに、先に存在していた冬の曲へ、あとから秋の終わりが接続された。制作順と、作品の中を流れる時間は別物である。
それでもアルバムを再生すれば、秋。冬。と季節は正しい順番で進む。本人がこの曲で信頼した、
秋の次に冬が来る様に
という規則を、アルバムの曲順そのものがやっている。そこは少し面白い。ただ、「秋の終わり」を変化の受容に成功した完成形にはしない方がいい。この歌には最後まで、
僕を置いていかないで
がある。一方で、
でも冬も好きだ!
もある。置いていかれるのは嫌だ。でも次の季節も好きだ。矛盾している。けれど、たぶん人が前へ進むときは、そのくらいなのだと思う。
過去への執着が完全に消えてから次へ行くのではない。まだ秋が好きなまま、冬も好きになる。そうやって気持ちの置き場所が一つ増える。無常について大きく考えた歌が、最後には、冬も好きだったわ、くらいの発見へ着地する。その軽さのおかげで、「変わらないものなど在りはしないのだ」という大きな言葉まで、少し人間らしく聞こえてくる。
クレジット
- 作詞
- みゅー
- 作曲
- みゅー