元気日和

僕はこんなにも元気だよ

最初から、そう言う。

そして最後には、

僕はもうすっかり元気だよ

と言う。なるほど。元気になったらしい。と思ったところで、もう一行。

僕は相変わらず元気だよ

相変わらず?では、最初から元気だったのか。元気になったのか。ずっと元気だったのか。どっちなんだ。

たぶん、この歌では、どちらかに決めなくていい。朝日の下で何度も「元気だよ」と言っているうちに、その言葉と身体の距離が少しずつ変わっていく。「元気日和」は、その一日の歌だ。

作品情報

Track
7
制作
作詞・作曲2008年4月
初出
2011年9月4日
クレジット
作詞: みゅー/作曲: みゅー

歌詞

お日様太陽燦々
お日様見て
僕はこんなにも元気だよ

お日様さん SUN 太陽
お日様来て
今日も一日を始めるよ

今は足りないものばかりが目に付くけれど
それでもいいさ 僕は僕だ
だから焦ることはないさ
いつか辿り着けるその時まで
気楽に行くのさ

お日様さん SUN 太陽
お日様聞いて!
僕はこんなこと思ってるよ

お日様さん燦々
態度を改めて
またゼロから始めるよ

君はなりたいものになろうと頑張ってるから
僕が背中を押してあげる
だから焦ることはないさ
君は独りじゃない
お日様も 君を見てるよ

明日もハレルヤ!

お日様燦々燦々
お日様浴びて
今日も一日が始まるよ

お日様 さんきゅー 太陽
お日様見て!
僕はもうすっかり元気だよ

僕は相変わらず元気だよ

曲を読む

いきなり太陽の呼び方が多い。

お日様太陽燦々
お日様見て
僕はこんなにも元気だよ

お日様。太陽。燦々。同じ光を、言葉を変えながら重ねて呼ぶ。少しくどい。

でも、そのくどさがいい。

これは太陽について説明しているのではなく、お日様。太陽。燦々。と、明るい音を口の中で転がしている感じに近い。

そして、

お日様見て

である。僕がお日様を見る、ではない。

お日様に、見て、と言う。何を見てほしいのか。

僕はこんなにも元気だよ

元気な僕である。かなり積極的な元気報告だ。ただ元気なら、わざわざ太陽へ、見て。こんなにも元気だよ。と宣言しなくてもよさそうな気もする。

だから、この一行には少しだけ力が入っている。本当に元気だから言っているのか。元気であることを確かめるために言っているのか。歌詞だけではまだ決まらない。次は呼び方まで変わる。

お日様さん SUN 太陽
お日様来て
今日も一日を始めるよ

お日様。さん。SUN。太陽。「さん」という音が増殖していく。

お日様さんSUN。その少し前には、燦々。同じ太陽を呼ぶだけなのに、どんどん遊び始める。

そして今度は、

見て

ではなく、

来て

である。太陽を自分の一日へ呼び込む。しかも、

今日も一日を始めるよ

「一日が始まる」ではない。

僕が、

一日を始める

のである。朝が来たから仕方なく今日になる、ではない。こちらから今日を起動しようとしている。元気も。一日も。

少し先回りして自分で始めようとしている感じがある。

ところが、その直後には、足りなさが出てくる。

今は足りないものばかりが目に付くけれど
それでもいいさ 僕は僕だ
だから焦ることはないさ
いつか辿り着けるその時まで
気楽に行くのさ

ここで、

今は

と、

いつか

が向かい合う。今は、足りないものばかり。でも、いつか、辿り着ける。何に辿り着くのかは書かれていない。足りないものが何なのかも書かれない。

だからこの歌は、目標達成の方法へは行かない。むしろ、

それでもいいさ 僕は僕だ

である。何かを手に入れたから僕になれる、ではない。足りない。それでも、僕は僕。かなり単純だ。

ほとんど同語反復である。僕は僕だ。当たり前である。でも、足りないものばかり数えている時には、その当たり前くらいしか残らないこともある。

だから、

焦ることはないさ

になる。いつか辿り着ける。だから走れ、ではない。

気楽に行くのさ

である。かなりのんびりしている。太陽へ向かって、こんなにも元気だよ、と言った人が、数行後には、足りないものばかり目につくけど、まあ気楽に行こう、と言っている。元気と不足感は、別に排他的ではないらしい。そしてまた太陽。

お日様さん SUN 太陽
お日様聞いて!
僕はこんなこと思ってるよ

今度は、

聞いて!

である。最初は、見て。次は、来て。今度は、聞いて。太陽との関係が少しずつ変わる。

最初は、自分の元気な姿を見せる相手だった。次は、一日を始めるために来てほしい相手。ここでは、自分の考えを聞いてほしい相手になる。かなり話し相手になっている。

しかも、

僕はこんなこと思ってるよ

と、内容へ行く前にわざわざ宣言する。太陽へ話しかけること自体が、この歌では大事らしい。そして次の三行は、少し妙だ。

お日様さん燦々
態度を改めて
またゼロから始めるよ

ここでも、お日様さん。燦々。「さん」が重なる。でも突然、

態度を改めて

となる。誰の態度か。主語は書かれていない。自然に読めば、自分の態度を改めるようにも聞こえる。ただ、歌詞は明示しない。

そのまま、

またゼロから始めるよ

へ行く。大事なのは、

また

である。

ゼロから始めるのは、初めてではない。

何度目かのゼロ。ゼロなら全部新品になりそうなのに、「また」が付いた瞬間、そこにも履歴ができる。また始める。またゼロになる。どうやらこの歌の「始める」は、一度きりの劇的な再出発ではない。

何度でもやるものらしい。そして、ここで初めて声が「君」へ向かう。

君はなりたいものになろうと頑張ってるから
僕が背中を押してあげる
だから焦ることはないさ
君は独りじゃない
お日様も 君を見てるよ

前半では、

焦ることはないさ

と自分に言っていた。今度は、それを君へ渡す。君は頑張っている。だから、もっと頑張れ、ではない。

僕が背中を押してあげる

そして、

焦ることはないさ

である。努力している人への応援なのに、さらに努力を要求しない。背中は押す。でも急かさない。その微妙な距離がいい。

そして、

君は独りじゃない

僕がいるから。だけでは終わらない。

お日様も 君を見てるよ

である。最初、お日様に、

見て

と言っていたのは僕だった。今度は、そのお日様が、君を見ている。自分を見守ってくれていた太陽を、君の方へ向ける。でも、僕が太陽そのものになる、とは歌詞には書いていない。僕は背中を押す。

お日様も君を見る。それぞれ別にいる。そのくらいの距離である。そして突然、

明日もハレルヤ!

一行だけ。かなり陽気だ。ハレルヤ には祝福の声があり、日本語の「晴れる」も耳に入り込んでくる。しかも、

明日も

である。

今日だけではない。

明日も。今日が元気日和なら、明日にも少し光を渡したい。

ただし、明日の天気を保証しているわけではない。

ほとんど勢いである。その勢いのまま、最後の太陽へ行く。

お日様燦々燦々
お日様浴びて
今日も一日が始まるよ

最初の方では、

今日も一日を始めるよ

だった。ここでは、

今日も一日が始まるよ

になる。一文字しか違わない。から、へ。でも主語と動きはかなり変わる。

最初は、僕が一日を始める。自分から起動する。最後は、一日が始まる。お日様を浴びているうちに、今日の方が動き出す。朝を自力で始めなければならない感じが、少しほどけたようにも読める。

そして「見る」も変わっている。最初は、

お日様見て

だった。途中では、来て。聞いて。ここでは、

お日様浴びて

である。

もう太陽を外から呼ぶだけではない。

光の中に身体が入っている。そのあと、また言葉遊び。

お日様 さんきゅー 太陽
お日様見て!
僕はもうすっかり元気だよ

お日様。さんきゅー。太陽。ずっと続いてきた「さん」の音が、最後には感謝の言葉になる。

そして、

見て!

が戻る。最初にも、

お日様見て

と言っていた。でも今度は感嘆符まで付く。見て!そして、

もうすっかり元気だよ

である。最初は、

こんなにも元気だよ

だった。最後は、

もうすっかり元気だよ

になる。もうがある。時間が経った。何かが変わった。元気になった。

そう読める。ここで終われば、とてもきれいだ。最初は無理して元気と言っていた。一日を過ごした。太陽に話した。

君を応援した。光を浴びた。そして本当に元気になった。めでたし。

ところが、最後にもう一行ある。

僕は相変わらず元気だよ

もうすっかりと言った直後に、

相変わらず

である。相変わらずなら、変わっていない。さっきまでの回復物語を、一行で少し変にする。元気になったのか。ずっと元気だったのか。

最初の、

僕はこんなにも元気だよ

は空元気だったのか。それとも、あの時点でもどこかでは本当に元気だったのか。歌詞だけでは一つに決められない。むしろ最後の「相変わらず」があることで、最初の「元気だよ」を単なる嘘にしにくくなる。元気じゃない。

でも元気。足りない。でも僕は僕。焦る。でも気楽に行く。

ゼロからまた始める。そして、相変わらず元気。この歌は、元気でない自分を捨てて、新しい元気な人へ生まれ変わる歌ではないのかもしれない。同じ自分の中にあった「元気」という言葉へ、一日かけて少し近づいていく。

そして最後には、最初の自分までまとめて、相変わらず、と言ってしまう。それくらいの、少し図々しい元気である。

現在のみゅーは、同じ歌を見て「僕はきっと最初から最後までずっと元気だったんだよ」とも書いている。当時は「空元気から本当の元気へ」と設計した。今は「最初からどこかに元気が残っていた」と読む。どちらかを正解にせず、同じ曲を違う時間から見た二つの説明として残す方が面白い。

制作背景

保存された当時メモでは、引っ越し後最初に、詞からできた曲。当時のみゅーは「元気だよ」を、初めは空元気、最後には本当の元気になるように時間設計していたという。「気楽に行くのさ」も、自分へ言い聞かせるための言葉だった。間奏前にはコードを変え、「和音の響きを聞いてみてほしい」と記している。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。

Mutant Music史から見ると

太陽へ話しかける歌は、これが初めてではない。

3rd album『Tokyo Walker』には、「Thank you,Sunshine」がある。あの曲の題名では、Sunshineへ、Thank you。感謝を向けた。

「元気日和」では、太陽への要求がずいぶん増える。

お日様見て

お日様来て

お日様聞いて!

見て。来て。聞いて。そして最後には、

お日様 さんきゅー 太陽

になる。最初から感謝するというより、一日じゅう太陽へ話しかけ、最後にようやく、さんきゅー。となる。もちろん「Thank you,Sunshine」を意識してこの構造を作った、とまで言う資料はない。

ただ、Mutant Musicの中で二つの歌を並べると、太陽との距離の違いは面白い。一方は感謝を題名にする。こちらは、太陽をほとんど話し相手にしてしまう。そして、この曲が作られたのは、『Tokyo Walker』の録音を終えた直後の2008年4月だった。

そのアルバムの最後には、「しあわせ」がある。あの曲では、笑顔も。涙も。二人でいることも。

まとめて、しあわせ、と置いた。

現在のみゅーは、その頃には音楽活動をいったん終えるつもりでもいた、と振り返っている。

ところが、そのあとにできた「元気日和」は、幸福について大きく定義するところからは始まらない。朝が来る。太陽が眩しい。今日も一日が始まる。

そして、

僕はこんなにも元気だよ

と言ってみる。かなり小さい。

でも、その小ささがこの曲には合っている。

「しあわせ」が何を幸せと呼ぶかを考えた歌なら、「元気日和」は、今日をどう始めるか、という歌である。

どちらが先へ進んだ考えというわけではない。

そもそも問うている縮尺が違う。そしてアルバム『茜空』では、この曲の直前に、「明日を待ってる」が置かれている。あちらの最後は、

無理はするな いいさ 明日を待てばいいさ

だった。今日できないなら、明日を待つ。そして次の曲では、

今日も一日が始まるよ

と、本当に朝が来る。曲順だけを見れば、かなりきれいな受け渡しである。夜に明日を待つ。次の曲で太陽が来る。

ただし、これは制作順ではない。

「元気日和」は2008年4月。「明日を待ってる」は、2007年から存在した断片をもとにしながら、完成は2009年9月までかかっている。だから、「明日を待ってる」を書いた翌朝に「元気日和」を書いた、という物語にはできない。

後からアルバムへ並べたことで、待つ夜。始まる朝。という流れができた。そのくらいで十分だと思う。

そして「元気日和」そのものの中にも、すでに一日の始まり方が二つある。前半は、

今日も一日を始めるよ

自分が始める。後半は、

今日も一日が始まるよ

一日が始まる。最初は、自分で元気を作ろうとしていたのかもしれない。最後には、太陽を浴びていれば、一日は勝手に始まる。そう聞くこともできる。

でも、そこで、回復した。

克服した。もう大丈夫。とまで言う必要はない。なにしろ最後は、

僕は相変わらず元気だよ

なのだから。変わったようで、変わっていない。元気になったようで、元気は最初からあったのかもしれない。ゼロから始めたのに、また、である。

この歌の元気は、過去の弱った自分を消して作るものではない。少し妙なまま同じ自分で、朝になったらまた、元気だよ、と言ってみる。そのくらいの日和なのだと思う。

クレジット

作詞
みゅー
作曲
みゅー