我が奔走

幸福について考えている。

次の瞬間には、「降伏は今日中にお願いします」。同じ「こうふく」なのに、ずいぶん違うところへ来てしまった。そのあとにはアルミ缶とミカンが出てきて、ガセ台を打ち、死神に身を売り、最終的には「無事帰還」する。題名は「我が奔走」。たしかに、落ち着く暇はない。

作品情報

Track
2
制作
2006年9月
初出
2007年4月4日
クレジット
作詞: みゅー/作曲: みゅー

歌詞

人波 歩いた 人聞きの悪い噂を聞いた
「人は皆 人並みな 幸福を享受できると信じている」

人ゴミ 嫌いだ 人見知りの傘をさした
一滴 この涙 降伏は今日中にお願いします

アルミ缶の上にあるミカン
振りかざす嘘と正義感
この度のことはただ遺憾

ラッキー ガセ台を打った 死神に身を売った
皆が皆 人並みな幸福を享受できるわけじゃねぇ

一夏 しのいだ 瞳閉ざしてみた
ひとまず ひどいな 粉を吹くまで長居します

作りかけの歌はまだ未完
わけも無く虚無で空虚感
この旅の果てに無事帰還

Check it! 今日は人の身の上 明日は我が身の上
皆が皆 等しく不幸を享受する権利がある
果てしない努力の末に手にするはずの幸せ
皆が皆 人並みな幸福を享受する保証なんてねぇ

曲を読む

最初の二行には、「人」がやたらといる。

人波 歩いた 人聞きの悪い噂を聞いた
「人は皆 人並みな 幸福を享受できると信じている」

人波。人聞き。人は皆。人並み。短いあいだに「人」が増殖する。

でも、そこで言われていることはかなり大きい。

人は皆 人並みな 幸福を享受できると信じている

誰がそう言ったのかは分からない。しかも、直前に出てきたのは、

人聞きの悪い噂

である。だから、この幸福論も少し怪しい。真理として提示されたというより、街を歩いていたら聞こえてきた、いかにもそれらしい話にも見える。「人並みな幸福」という言い方も妙だ。幸福なのに「人並み」。

自分が幸せかどうかより、ほかの人と同じくらい幸せかどうかを気にしている。しかも、それを「享受する」。ずいぶん硬い言葉である。この「享受」は、このあと何度も使い回される。次の連も、まだ「人」から逃げられない。

人ゴミ 嫌いだ 人見知りの傘をさした
一滴 この涙 降伏は今日中にお願いします

正本では「人混み」ではなく、「人ゴミ」。これが意図した表記かどうかは分からないので、それ以上は決めない。ただ、文字の上では少し荒れて見える。人の波から、人のゴミへ。

そこで差すのが、

人見知りの傘

である。人見知りは性格のはずなのに、傘になっている。人から身を守るためのものらしい。

でも、その傘の中でも、

一滴 この涙

は落ちる。そして、その直後。

降伏は今日中にお願いします

冒頭では、「幸福」。ここでは、「降伏」。音にすればどちらも「こうふく」である。幸福を享受できると信じていた人が、数行後には降伏している。

しかも、「今日中にお願いします」。敗北宣言なのに、妙に事務的だ。敵軍へ白旗を掲げるというより、提出期限のある書類みたいである。大げさな言葉を、大げさなまま使わない。この歌はずっとそれをやる。

そして、いよいよミカンである。

アルミ缶の上にあるミカン
振りかざす嘘と正義感
この度のことはただ遺憾

ミカン。正義感。遺憾。意味ではなく、まず音がつながる。

しかも最初の、

アルミ缶の上にあるミカン

は、もともと仮歌だったという。意味を考えて書いた一行ではなかった。でも残った。すると、そのあとに置かれた「正義感」や「遺憾」まで、少し怪しくなる。立派な言葉のはずなのに、ミカンと同じ韻の列へ並んでいる。

特に、

振りかざす嘘と正義感

が変だ。普通なら正義感を振りかざす。でも、ここでは「嘘と正義感」がまとめて振りかざされる。正反対のはずなのに、使い方は同じ。どちらも、自分を大きく見せる道具になる。

そして、

この度のことはただ遺憾

いきなり記者会見みたいになる。何があったのかよく分からないのに、「遺憾」で処理する。幸福論を語っている本人も、正義の側へきれいに立たない。そのあたりで、急に話が具体的になる。

ラッキー ガセ台を打った 死神に身を売った
皆が皆 人並みな幸福を享受できるわけじゃねぇ

「ラッキー」。そう思った。ところが次の言葉は、「ガセ台」。幸運は一語しかもたない。打った。

売った。パチンコ台を打った話が、たった一語違うだけで、

死神に身を売った

まで膨らむ。そして、自分がガセをつかんだという一日の話から、

皆が皆 人並みな幸福を享受できるわけじゃねぇ

と人類の幸福論へ飛ぶ。ものすごい飛躍である。冒頭では、

人は皆 人並みな 幸福を享受できると信じている

だった。今度は、

皆が皆 人並みな幸福を享受できるわけじゃねぇ

になる。「人は皆」が「皆が皆」へ。「信じている」が「わけじゃねぇ」へ。幸福についての立派な言葉が、ガセ台一台でひっくり返った。だいぶ機嫌が悪い。

後半では、また意味より先に音が走り出す。

一夏 しのいだ 瞳閉ざしてみた
ひとまず ひどいな 粉を吹くまで長居します

一夏。瞳。ひとまず。ひどい。「ひ」が次々に出てくる。

その勢いで、

粉を吹くまで長居します

へ行く。何が粉を吹くのか。なぜそこまで長居するのか。今回の一次資料からは分からない。分からないので、そのままでいい。

ただ、題名は「我が奔走」である。走り回る歌なのに、「長居します」。ここでも少し止まってしまう。そして次の三行。

作りかけの歌はまだ未完
わけも無く虚無で空虚感
この旅の果てに無事帰還

また韻が先へ走る。未完。空虚感。帰還。

でも、意味の方も少し変だ。

作りかけの歌はまだ未完

作りかけなのだから、そもそも未完である。さらに、「まだ未完」。未完成であることを二重に言う。次は、

わけも無く虚無で空虚感

虚無。空虚感。これもかなり似たものを重ねている。何もないことを、何度も言っている。

言葉が足りないのではない。

むしろ余っている。そして、その「旅」の果てに待っていたのが、

無事帰還

である。

大成功ではない。

勝利でもない。完成でもない。帰ってきた。無事に。それだけ。

「我が奔走」という勇ましい題名のわりに、成果がずいぶん小さい。でも、だからこそ「無事帰還」が少し嬉しくも聞こえる。ガセをつかんで。降伏して。虚無になって。

それでも帰ってきた。最後になると、突然、

Check it!

である。そして格言が少し変形する。

Check it! 今日は人の身の上 明日は我が身の上
皆が皆 等しく不幸を享受する権利がある

「今日は人の身、明日は我が身」ではない。

「身の上」まで言う。身の上。その人に起きている事情。今日それを背負っているのは他人でも、明日は自分かもしれない。そこまでは普通の警句である。

でも、そのあとが、

皆が皆 等しく不幸を享受する権利がある

である。また「享受」。しかも今度は、幸福ではなく不幸を享受する。「享受」は本来、何か良いものを受け取るときに似合う。「権利」も、普通なら守られてほしいものだ。

それを、不幸を享受する権利、にしてしまう。平等の理念が、急に黒い冗談になる。

でも、少しだけ真面目にも聞こえる。

不幸は、自分だけに与えられた特別な呪いではない。

今日の誰かが不幸なら、明日は自分かもしれない。逆もある。「自分だけがこんな目に遭っている」という悲劇の中心から、少し外へ出ようとしている。ただし、爽やかな連帯にはならない。

言い方が、「不幸を享受する権利」。どうしてもひねくれている。そして最後に、「享受」が四度目を迎える。

果てしない努力の末に手にするはずの幸せ
皆が皆 人並みな幸福を享受する保証なんてねぇ

ここで大事なのは、

手にするはずの幸せ

の「はず」だと思う。努力すれば幸せになれる。頑張れば報われる。そういう予定表が、どこかにある。

でも、

保証なんてねぇ

と言う。

努力そのものを否定しているわけではない。

努力と幸福のあいだに、必ず結果が出る契約があることを否定している。最初の「享受」は、幸福を享受できると「信じている」。次は、享受できる「わけじゃねぇ」。その次は、不幸を享受する「権利がある」。

最後には、幸福を享受する「保証なんてねぇ」。同じ言葉を四回使いながら、幸福の制度がどんどん壊れていく。信念。否定。権利。

保証。かなり大きなことを言っている。

でも、その真ん中にはずっと、アルミ缶の上にあるミカン、がいる。そこが大事なのだと思う。この曲は世界の不公平を語る。努力しても幸せになれる保証なんてない、とまで言う。でも、悲劇の主人公として格好よく立たせてもらえない。

自分で駄洒落を言う。ガセ台を打つ。長居する。未完の歌を持って帰ってくる。幸福について考えれば考えるほど、本人も一緒に転ぶ。

だから「我が奔走」なのだろう。一日のパチンコから、なぜか人は幸せになれるのかという話まで飛んでいく。内容を先に決めて言葉を当てるというより、ミカン、正義感、遺憾と音に引っ張られて意味が別の場所へ運ばれる。その飛距離こそ、この曲らしい。

制作背景

きっかけは、本人曰く「浅はかな経験」である。一日パチンコを打って負けた出来事が、歌になると死神との契約や幸福論まで膨らんだ。仮歌だった「アルミ缶の上にあるミカン」まで残し、そこから音の近い言葉を次々つないだため、本人自身この曲を「言葉遊びの歌」と呼んでいる。音楽面では「NirvanaぽいグランジとGRAPEVINEを融合して僕なりに咀嚼したらこうなった」と振り返る。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。

Mutant Music史から見ると

アルバムでは、「渇いた水槽」が一曲目。「我が奔走」が二曲目。でも制作時期は逆である。「我が奔走」は2006年9月。「渇いた水槽」は2006年10月。

だから「我が奔走」は、「渇いた水槽」を受けて書いた返事ではない。それでも曲順で聴くと、妙につながってしまう。「渇いた水槽」では、正体不明のものが来る。期待する。ガセに踊らされる。

そして、

生き残ってしまった WHY?

と終わらない疑問を抱える。その次に「我が奔走」が来ると、期待の話が突然パチンコ台になる。ガセ台をつかんだ。一日を使った。負けた。

そして、幸福なんて保証されていない、と言い始める。宇宙から飛んできた彗星が、翌曲ではずいぶん俗っぽい場所へ着地する。

でも、これは制作順から生まれた連作ではない。

曲順があとから作ったつながりである。そこが面白い。しかも「我が奔走」の本人は、ガセを見抜けるようになったわけではない。最初に、

ラッキー

と言っている。ガセなのに。騙された後で世界の構造を見抜いた賢者になるのではなく、騙された本人がそのまま幸福について語り始める。だから妙に信用できるところもある。

もう一つ気になるのは、1st albumの「就職活動」である。あの曲では、

それは不幸だ

と、誰かの就職活動をかなり勝手に「不幸」と決めていた。相手本人がどう感じているかより、こちらが不幸だと思うことの方が強かった。「我が奔走」では、

今日は人の身の上 明日は我が身の上

となる。不幸の持ち主が固定されない。今日見ている側が、明日には当事者になるかもしれない。さらに、

皆が皆 等しく不幸を享受する権利がある

と、ひどい言い方で全員を同じ場所へ並べる。だからといって、「就職活動」で他人事だった不幸を理解できるようになった、という成長物語にはしたくない。そもそも「我が奔走」の出発点は、パチンコで負けたという自分の話である。

ただ、二曲を並べると、誰が不幸なのか、という問いの置き場所が違う。誰かを見て、それは不幸だ、と言う歌。自分が転んで、明日はお前かもしれないぞ、と言う歌。どちらも、かなり余計なお世話である。そして「我が奔走」には、最後まで立派な幸福論の答えがない。

努力しても保証はない。不幸は誰にでも来る。作りかけの歌は未完。その旅の果てにできたことは、

無事帰還

だった。大きな答えを持ち帰らない。生還しただけ。でも、その途中でアルミ缶のミカンだけは拾って帰ってきた。それで十分、この曲らしい。

クレジット

作詞
みゅー
作曲
みゅー