さよならは目の前に

会いたい人は、目の前にいない。

でも、

さよならは目の前に

まだ別れてもいないのに、さよならだけは見えている。

相手が何かを告げたわけではない。

ただ、少し大人びて見えた。それだけで、

あぁ僕は取り残されていく…

と思ってしまう。この歌で怖いのは、別れそのものより、自分が同じ場所にいるうちに、相手の時間だけが先へ進んでしまうことなのだと思う。

作品情報

作品区分
アルバム未収録曲
制作
16歳時・制作年月不明

歌詞

いつも心の支えだった
あの人は今何を想ってるんだろ?

「あなたに会いに行きたいけど
うまい口実が見つからない」

あの頃の僕はひたすらシャイで
自分でももどかしくて
そんな自分が悔しくて
そんな思いが涙に変わる

2つも年上だととても大人に見えるんだよ
二人で写真を撮ったことも今は夢のよう

すっかり落ち着いて余計に大人びて見えるよ
あぁ僕は取り残されていく…さよならは目の前に

人生ってとても気の張るものだけど
あなたといれば悩みごとも消えてしまう

苦しくなった時はいつもあの人を想ってたんだろ?
気づいた時にはもう遅い…さよならは目の前に

さよならは目の前に

曲を読む

最初の二行から、時間が少しずれている。

いつも心の支えだった
あの人は今何を想ってるんだろ?

まず、

いつも心の支えだった

である。

だった

過去形だ。そして次の行には、

がある。あの人は、今、何を想っているのか。支えだった時間はすでに過去へ置かれ、僕だけが現在から相手の心を想像している。ただし、関係が終わった、とはまだ書かれていない。さよならも起きていない。

それなのに文法だけは、少し先に別れ始めている。そして呼び方は、

あの人

である。少し遠い。ところが次の二行だけは、鉤括弧に入る。

「あなたに会いに行きたいけど
うまい口実が見つからない」

ここでは、

あなた

になる。外側から語る時には、あの人。心の中では、あなた。距離が急に縮まる。

でも、その近い呼び方のまま、会いに行けるわけではない。問題は、会いたいかどうか、ではない。もう、

会いに行きたい

とは分かっている。

なのに、

うまい口実が見つからない

のである。会いたい。なら会いに行けばいい。とはならない。

会いたいだけでは、理由として足りないらしい。別の理由。口実。が必要になる。かなり面倒くさい。

でも、この面倒くささがそのまま歌になっている。

次の連では、動けない理由を相手ではなく自分の側へ置く。

あの頃の僕はひたすらシャイで
自分でももどかしくて
そんな自分が悔しくて
そんな思いが涙に変わる

まず、

あの頃の僕

である。歌を書いている時点ですでに、少し前の自分を振り返っている。そして、シャイ。もどかしい。悔しい。

涙。と進む。相手に何かをされたから泣く、ではない。自分で自分を見て、もどかしい。

そんな自分が、悔しい。そして、

そんな思いが涙に変わる

感情が最後に身体へ出る。ここでは、

そんな

も二度続く。そんな自分。そんな思い。何が悔しいのかを細かく分析するより、指をさすように、そんな。そんな。

と進んでいく。十六歳の心の説明としては、そのくらいの粗さの方がむしろよく分かる。そして、二人の距離が数字になる。

2つも年上だととても大人に見えるんだよ
二人で写真を撮ったことも今は夢のよう

2つ

ではない。

2つも

である。二歳差が客観的にどれくらい大きいか、という話ではない。僕には、大きい。しかも、

とても大人に見える

なのである。大人だ。とは言わない。

見える

相手そのものというより、僕からどう見えているかが書かれる。その次には、

二人で写真を撮ったこと

が出る。写真を撮った、という出来事はかなり具体的だ。同じ場所に二人でいた時間が、一枚の写真になった。

なのに、

今は夢のよう

である。そんな具体的な出来事なのに、夢のよう。具体的だから現実味が増す、とは限らないらしい。むしろ、そこに本当に二人でいたことの方が、今となっては現実離れして見える。

そして、もう一度、

見える

が来る。

すっかり落ち着いて余計に大人びて見えるよ
あぁ僕は取り残されていく…さよならは目の前に

最初は、

とても大人に見える

だった。今度は、

余計に大人びて見える

である。

余計に

つまり、前から大人に見えていた。久しぶりに見たら、さらにそう見える。ここでも、相手が実際にどれほど変わったのか、歌詞は測っていない。あくまで、

見える

のである。

でも、その見え方だけで、僕の側には大きな変化が起きる。

取り残されていく

取り残された、ではない。

取り残されていく

今まさに、置いていかれている途中だ。相手が遠ざかっていく動作も書かれていない。別れを告げられたわけでもない。ただ、相手が大人びて見える。

その瞬間、自分だけが同じ場所に残っているように感じる。そして、

さよならは目の前に

である。ここが不思議だ。「さよなら」は、本来なら出来事だ。言う。言われる。

別れる。そういう時間の中に起こるものだ。

でも、この歌では、

目の前

にある。空間へ置かれている。まだ来ていない未来が、目の前の景色として見えている。しかも、会いたい「あなた」は、今ここにはいない。

目の前に見えているのは、あなたではなく、さよなら。かなり寂しい配置である。そのあと、急に話が大きくなる。

人生ってとても気の張るものだけど
あなたといれば悩みごとも消えてしまう

十六歳で、

人生って

である。ずいぶん大きく出た。しかも人生は、

とても気の張るもの

らしい。かなり疲れている。

でも、その大きな「人生」が、

あなたといれば

の一言で、急に一人の相手へ縮む。人生はいろいろ大変。でも、あなたといれば、

悩みごとも消えてしまう

全部解決する、とは書かない。人生が楽になる、でもない。悩みごとが、消えてしまう。相手の存在が、世界そのものを変えるというより、その時だけ、気にしていたことを消してくれる。だからこそ、その人がいなくなることが怖いのだろう。

そして最後に、最初の、

いつも

が戻る。

苦しくなった時はいつもあの人を想ってたんだろ?
気づいた時にはもう遅い…さよならは目の前に

冒頭では、

いつも心の支えだった

と言い切っていた。でもここでは、

いつもあの人を想ってたんだろ?

疑問形になる。最初から知っていたはずのことを、最後になって自分へ確認している。本当に、ずっと支えだったんだろ?苦しい時、いつも思い出していたんだろ?そうだったんじゃないか?

相手を失いそうになって初めて、その人が自分の中でどれほど大きかったのかを、自分自身へ問い直している。そして、

気づいた時にはもう遅い…

である。何に気づいたのか。一つには決めなくていいと思う。好きだったこと。支えられていたこと。

感謝していたこと。会いたかったこと。それを言葉にしていなかったこと。いろいろ重なっている。

何に対して、

もう遅い

のかも書かれない。告白するには。感謝するには。会いに行くには。引き留めるには。

どれか一つへ固定しないからこそ、「遅い」という感覚だけが大きく残る。そしてまた、

さよならは目の前に

歌の最後には、とうとう一行だけになる。

さよならは目の前に

それだけ。さよならした、とは最後まで歌わない。相手の答えもない。別れた後の景色もない。目の前にある。

そこで止まる。

つまり、この歌は「さよならの歌」なのに、歌の中では一度もさよならが起きない。ずっと、来る前。気づくのも遅かった。動くのも遅かった。

でも、さよならだけはまだ来ていない。

そのぎりぎりの時間に立っている。

現在のみゅーは、当時の自分を「ひどく不器用」「いちいち面倒くさい」と笑う。でもすぐに、十六歳には十六歳なりの人生しかなく、それがその時には全部だったと言い直す。恋愛、感謝、憧れのどれか一つに分類せず、本人自身がまだ分類できていないまま残す方がいい。手紙の返事について「いまだに返事を待っている。半分は冗談だ。でも、半分は本気だ。」と今も言えるところまで、この歌の時間は続いている。

制作背景

現在のみゅーの回想では、二歳上の音楽部の先輩との別れが近づく中で書いた曲。感謝を言葉にしてこなかったことへ遅れて気づき、一日で曲ができたら手紙を書く、という自分なりのルールを課したという。その日、床屋で突然、間奏のコード進行と口笛が浮かび、本人曰く「なぜ床屋だったのかは知らない」。そこから一気に歌と手紙まで書いたと振り返っている。

Mutant Music史から見ると

現在のみゅーは、十六歳から十八歳までに、三百曲以上作った、と振り返っている。多くはインストで、歌詞を付けた曲を当時、「ウタモン」と呼んでいた。その中から選んだDemo曲集について、現在は、「後のMutant Musicへつながっていく『エピソードゼロ』」と呼んでいる。ただ、この言葉は少し慎重に使いたい。

エピソードゼロ、と言うと、後の作品の伏線を探したくなる。この歌のここが、後のあの曲へ発展した。まだ未熟だったものが、後に完成した。そんな歴史にしたくなる。

でも「さよならは目の前に」は、後の曲を予告していなくても、すでに十分変な場所に立っている。まだ別れていない。でも別れは見える。好きなのか。感謝なのか。

憧れなのか。まだ分類できない。言葉にするのも遅い。その宙づりだけで、一曲になっている。

後の1st albumには、「おてがみ」がある。あちらでは、相手からもらった言葉が、今の自分を動かしている。そして、聞こえてくる、「がんばれよ」へ、「がんばるよ」と応答する。

「さよならは目の前に」では、制作の背景に、自分から書いた手紙がある。返事は、少なくとも現在の記憶には残っていない。一方は、受け取った言葉へ答える。こちらは、届くかどうか分からない言葉を、ようやく渡す。

どちらも手紙にまつわる歌だけれど、言葉の向きが違う。それを成長や発展とは呼ばなくていい。その時その時で、言葉を渡す側だったり、受け取る側だったりした。同じ1st albumには、「明日も君に会える」もある。

題名だけ並べても、かなり対照的だ。明日、君に会える。それに対して、さよならは、目の前に。一方では、今ある時間が明日も続くことを願う。

こちらでは、まだ終わっていない時間の先に、別れがもう見えてしまう。ただし、「さよならは目の前に」が先にあったから、後に「明日も君に会える」という反対の歌を書いた、といった因果までは資料にない。

同じ人が、別の時間には、会える明日を歌い、別の時間には、来てほしくないさよならを歌った。それでいい。もっと後の「あの日あの時さよなら」は、題名からしてもう、さよならを過去へ置いている。

どうしても分からない
あの日あの時さよなら

あちらでは、別れはすでに起きた。そのあとから、なぜだったのか、まだ分からない。「さよならは目の前に」では逆である。理由が分からないというより、出来事そのものがまだ来ていない。

さよならは、未来にある。でも、目の前に見える。一方は、過去になった別れを振り返る。こちらは、未来の別れを先に見てしまう。時間の向きがまるで違う。

だから、この十六歳の歌を、後の別れの歌の原型、と呼ぶ必要もないと思う。後の歌には後の時間がある。この曲には、さよならの一歩手前でしか生まれない時間がある。そして歌は最後まで、

さよならは目の前に

から進まない。言った後でもない。乗り越えた後でもない。

目の前。

そこで止まる。

現在のみゅーがDemo曲集を、青臭く。小難しく。妙に肩肘を張っている。と振り返るのも分かる。

でも本人はそのあと、「それも含めて当時の僕だ」とも書いている。たぶん、この曲に必要なのはそのくらいの距離なのだと思う。十六歳の「人生ってとても気の張るもの」を、今の言葉で賢く直さない。

二歳差くらい大したことない、とも言わない。会いたいなら会いに行けばいい、とも言わない。その時には、二歳は大きかった。人生は気が張った。口実がなければ会いに行けなかった。

そして、さよならは本当に、目の前に見えた。その小さな世界を、小さいからと縮めない。それだけで、この曲は今も十分残る。