フレッチャー

踊れ。

上れ。逃げるな。全部忘れろ。感じるままに。好きなように楽しめ。

ずいぶん自由な歌である。そして、ずいぶん命令が多い。

楽しんで As you like

と言いながら、帰ろうとする人まで指さして、

逃げるな!メガネ

と呼び戻す。好きにしろ。ただし、帰るな。この少し無茶な参加への熱意が、「フレッチャー」の勢いを作っている。

作品情報

Track
2
制作
作曲2008年6月・作詞2008年8月
初出
2011年9月4日
クレジット
作詞: みゅー/作曲: みゅー

歌詞

澄んだ音で Clap your hands
手を鳴らせ Boys & Girls
済んだことは Slip your mind
今ここで Wash away

さぁ!皆踊れ 音に溺れ
恥も捨てて ありのままに
Coming up 踊れ! ステージ(ここ)に上れ
全部忘れて 感じるままに

なんだかんだで Happy life
楽しんで As you like

さぁ!皆踊れ 音に溺れ
恥も捨てて ありのままに
Coming up 踊れ! ステージ(ここ)に上れ
全部忘れて 感じるままに

Ah... おれが稀代のフレッチャー
さぁ! おれの時代だぜ 逃げるな!踊れ
Ah... これが期待のプレッシャー
さぁ! 命の炎が 消える前に

Ah... 誰が次代のフレッチャー
さぁ! 君の時代だぞ 逃げるな!メガネ
Ah... これが期待のプレッシャー
さぁ! 命の炎が 消える前に

さぁ!皆踊れ 音に溺れ
恥も捨てて ありのままに
Coming up 踊れ! ステージ(ここ)に上れ
全部忘れて 感じるままに

曲を読む

最初から、音で押してくる。

澄んだ音で Clap your hands
手を鳴らせ Boys & Girls
済んだことは Slip your mind
今ここで Wash away

まず、

澄んだ

と、

済んだ

である。読みは同じ。でも一つは、今、鳴らす音。

もう一つは、もう終わったこと。澄んだ音を出しながら、済んだことは流してしまえ、という形になっている。しかも日本語だけでは終わらない。Clap your handsSlip your mindWash awayと、短い英語が次々に入る。文法を説明する時間はない。

手を鳴らす。忘れる。洗い流す。とにかく今の身体へ話を戻そうとしている。そしてサビ。

さぁ!皆踊れ 音に溺れ
恥も捨てて ありのままに
Coming up 踊れ! ステージ(ここ)に上れ
全部忘れて 感じるままに

まず、

踊れ

である。命令形。しかもそのすぐ後は、

溺れ

踊れ。溺れ。音がよく似ている。そして、

上れ

まで来る。踊れ。溺れ。上れ。意味より先に、末尾の響きが身体を前へ押していく。

面白いのは、

音に溺れ

という言い方だ。音を聴け、ではない。

音の中へ入れ。しかも沈め。外から鑑賞する位置を残してくれない。さらに、

ステージ(ここ)に上れ

である。歌詞そのものが、ステージと、ここを重ねている。

舞台は向こうにある特別な場所ではない。

ここ。今いる場所が、そのままステージになる。観客と演者の境目まで崩したいらしい。

ところが、この強い命令の中に、

ありのままに

感じるままに

が入っている。ありのままでいい。感じたままでいい。かなり自由な言葉だ。

でも、それを言っている人が、踊れ!

上れ!と叫んでいる。自由にしろ、と命令されている。これは少し可笑しい。もちろん、この矛盾を論理的な欠陥として直す必要はない。

むしろ、どうしても参加してほしい。考えてないで来い。という熱の方が先に立っている。その熱が強すぎるから、自由への誘いまで命令形になる。そして短い二行。

なんだかんだで Happy life
楽しんで As you like

急に軽い。

なんだかんだで

で、事情を全部まとめる。何があったのか。何を忘れたいのか。なぜここまで踊らせたいのか。詳しく説明しない。

なんだかんだ。それで、

Happy life

そして、

As you like

好きなように。やっぱり自由でいいらしい。でもその直後に、また、

皆踊れ

が戻ってくる。好きにしていい。ただ、こっちは踊ってほしい。その押し引きがずっと続く。そして後半、急に一人称が大きくなる。

Ah... おれが稀代のフレッチャー
さぁ! おれの時代だぜ 逃げるな!踊れ
Ah... これが期待のプレッシャー
さぁ! 命の炎が 消える前に

まず、

おれが稀代のフレッチャー

である。大きく出た。

普通のフレッチャーではない。

稀代

である。そして次の行は、

おれの時代だぜ

稀代。時代。音が続く。さらに、

期待のプレッシャー

稀代。時代。期待。ずっと似た音が回っている。しかも内容まで少し面白い。

おれは稀代だ。おれの時代だ。ものすごく自信満々である。その直後に、

期待のプレッシャー

と言う。自信の表明と、期待される重さが、同じ響きの中に入っている。俺についてこい、と堂々としているだけではない。期待されている。そのことはプレッシャーでもある。

そして、この踊りには突然期限まで付く。

命の炎が 消える前に

それまでの、手拍子。ダンス。ステージ。Happy life。

という楽しげな空気から、急に、命が消える前に、まで行く。ずいぶん大きい。

でも、この一行が入ることで、なぜそんなに急いで踊らせるのか、少し分かる。

いつでも踊れるわけではない。

身体が動く時間には限りがある。だから、済んだことは流して。恥も捨てて。今ここで。踊れ。

そういう切迫感になる。そして、すぐ次の人物を探し始める。

Ah... 誰が次代のフレッチャー
さぁ! 君の時代だぞ 逃げるな!メガネ
Ah... これが期待のプレッシャー
さぁ! 命の炎が 消える前に

さっきは、

稀代

だった。今度は、

次代

である。さらに、

君の時代

が来る。稀代。時代。期待。次代。

時代。期待。ほとんど音だけで世代交代している。そして重要なのは、

おれの時代

が、たった一連しか持たないことだ。すぐに、

君の時代

になる。おれの時代だぜ。と言った本人が、その直後には次を探している。

自分の天下を永久に続けたい歌ではない。

むしろ、今は俺。次は誰だ。という歌だ。しかも、

誰が次代のフレッチャー

と広く問いかけた直後に、

君の時代だぞ

となる。「誰が?」から、「君だ」へ急に狭まる。そしてさらに、

メガネ

まで付く。皆。Boys & Girls。誰が。君。

メガネ。呼びかけの範囲がどんどん一人へ絞られていく。全員へ「踊れ」と言っても、どうしても踊らない人がいる。なら、指名する。そこにいる君。

そこのメガネ。逃げるな。かなり乱暴である。ただし、歌詞だけから、この「メガネ」が誰なのか、までは分からない。後のセルフライナーには、この人物像についてもう少し説明がある。

でも歌詞だけを読めば、集団の外へ出ようとしている一人を、無理やり輪の中へ呼び戻す言葉として残っている。そして最後は、また同じサビ。

さぁ!皆踊れ 音に溺れ
恥も捨てて ありのままに
Coming up 踊れ! ステージ(ここ)に上れ
全部忘れて 感じるままに

結局、次代のフレッチャーが誰だったのか、答えは出ない。メガネが踊ったのかも分からない。ステージへ上ったのかも分からない。ただ、

上れ

と呼びかけたところで歌は終わる。フレッチャーは、完成した一人の主人公の名前というより、誰かから誰かへ渡される役名のようにも見える。おれがフレッチャー。次は誰だ。君だ。

その君も、いつかまた次を呼ぶのかもしれない。この歌では、一番偉い人になることより、熱を止めないことの方が大事らしい。

「みんな踊れ」という命令は、観客だけに向いているわけではない。現在のみゅーは、斜に構えて感情が動くのを避ける「自分の中のメガネ」にも向けた言葉だったと読む。一方で、自分を絶対的な先頭ではなくフォロワー側の「フレッチャー」と捉えながら、歌では堂々と先頭に立つ。その自信と自嘲が同居している。

制作背景

この頃のみゅーは、余計なことを考えないよう音楽へ没頭し、「感情の排泄」のように曲を作っていたという。狙っていたのは、突然暗転してミラーボールが回り、観客が踊り、モッシュするようなバンド曲。AパートとB・Cパートは別々に生まれ、「合体したら上手いこと行った」と本人は振り返っている。参照した音楽もピアノとストリングスのファンクから福山雅治までかなり自由で、似ているところには本人自身が「似てる、認める」と書いている。みゅー本人による詳しい制作記録は、NOTES「制作秘話」で読めます。

Mutant Music史から見ると

アルバムでは、この前に In my life が置かれている。並べて聴くと、かなり続いて聞こえる。In my life では、

朝まで踊ろうよ 悲しいことなど
忘れてしまえばいいね

と言った。「フレッチャー」では、

全部忘れて 感じるままに

そして、

皆踊れ

である。前の曲で自分へ向けていた、忘れよう。踊ろう。という言葉が、次の曲では、忘れろ。踊れ。

と外へ向く。曲順としては、とてもきれいだ。

ただし制作順は、そのままではない。

両曲とも作曲は2008年6月だが、「フレッチャー」の作詞は8月。In my life の作詞は9月。だから、In my life の思想が「フレッチャー」で集団へ発展した、という制作順にはできない。

アルバムへ並べた時に、自分へ向けた踊りと、みんなへ向けた踊りが、結果として隣り合った。むしろ、その編集上の響きとして見る方がいい。そして以前の「Tokyo Walker」には、

Everybody say, Tokyo Walker

という呼びかけがあった。あの曲でも最後には、みんな、が入ってきた。ただし、参加の仕方はかなり違う。「Tokyo Walker」では、同じ名前を口にする。街を歩く。

それで参加できた。「フレッチャー」はもっと乱暴だ。手を鳴らせ。踊れ。音に溺れろ。

ステージへ上れ。しかも、帰ろうとすれば、逃げるな。である。同じ「みんな」への呼びかけでも、一方は街を一緒に歩く共同体。こちらは身体をぶつけ、ステージへ上げようとする共同体だ。

どちらかがより進んだ形という話ではない。

必要としている参加の温度が違う。そして「フレッチャー」には、参加するだけでは終わらないところがある。

おれが稀代のフレッチャー

と名乗ったあと、

誰が次代のフレッチャー

と聞く。

自分が中心になって終わる歌ではない。

自分は誰かの後を追った。今は自分が前に立つ。そして次の誰かを呼ぶ。その誰かも、また次を呼ぶかもしれない。

現在のみゅー自身が、題名をフォロワーシップと結びつけていることを考えると、この曲で面白いのは、先頭と後方が固定されていないことだと思う。フレッチャーは永遠の二番手でもない。絶対的なリーダーでもない。

誰かを追い、ある時には前に出て、また次へ渡す。そういう位置なのだろう。だから、

おれの時代だぜ

の次に、

君の時代だぞ

が来る。時代を奪い合うというより、手渡している。ただ、その受け渡しは優しくない。逃げるな。踊れ。

上れ。命の炎が消える前に。かなり強引だ。

でも、この時のみゅー自身が、余計なことを考えないように音楽へ没頭し、それを「感情の排泄」と呼んでいた。そう考えると、この強引さをきれいな教育論へ整える必要もないと思う。まず自分が音へ飛び込む。

次に、隣の人も引きずり込む。そして、その人がまた次を呼ぶ。少なくともこの曲では、それくらい騒がしい形でしか渡せないものがあった。それを渡す人の名前が、フレッチャー、なのだと思う。

クレジット

作詞
みゅー
作曲
みゅー